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井上陽平氏ご逝去 告別式が執り行われた
告別式/井上陽平

去る2026年8月24日(月曜日)病気療養中だった美容家井上陽平氏が逝去なさった。
通夜が8月29日(土)18時から19時、告別式が30日(日)9時30分~11時、品川区の桐ケ谷斎場に於いて、喪主を次女の桑野賀由里が務め、菩提寺である増上寺ご住職の読経の中、荘厳に執り行われた。満92歳(享年93歳)だった。戒名は『導譽美匠陽徹居士』。

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タカラベルモント株式会社名誉顧問千代岡和文氏と有限会社西洋髪結代表取締役会長正宗 卓氏(ヘアスタイリスト協会運営委員長)が弔辞を捧げた。『井上陽平美容室』で育ち、全国で独立した諸先生方はじめ、美容業界の関係者が多数参列し、故人への感謝とご冥福を祈った。

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井上陽平氏は、1933年(昭和8年)10月10日、愛知県東海市横須賀町で7人兄弟の4男として誕生。母親は花街界隈で『髪結香蘭』を営んでいた。スポーツ万能だった氏は、愛知県横須賀高等学校卒業後、野球選手になりたいとプロ野球テスト生の審査を受けたが、プロを目指す青年たちの力量は予想以上で、その道は諦めざるを得なかった。柔道3段を取得するべく上京した際、下宿先の叔母さんが山野美容専門学校でモデルをしていたため、進路を迷っていた氏に美容師への道を勧めた。上京前、名古屋の外国人専用のホテルでアルバイトをしていた時に見たファッション誌でドレスやメイクアップに興味を持っていたので、すぐに山野美容専門学校に行き、専科に入学、修了し、さらに母親が研究科の学費も出してくれて、無事卒業。しかし、当時は背の高い男性美容師は敬遠されており、就職先がなく、地元の母親の店を手伝うようになる。親の経営する『髪結香蘭』でお客様を担当しながら日々勉強と工夫を重ねた。しばらくして近くに『井上美容室』を開き、形がつけやすく、手入れのしやすい髪形が評判となり、店は繁盛した。名古屋でコンテストに優勝してからは、後援会もでき、諸先生方、諸ディーラーのお陰で、小さな3階建ての自社ビルを建てられる位になり、1960年(昭和35年)に東京・駒込の花柳界のある場所に鏡面2、シャンプー台1、スタッフ1のサロンを開く。その後、祐天寺にある現在の『井上陽平美容室』を開業。28歳だった。(詳細は2014年発売 月刊『SHINBIYO』5月号『創業95周年記念企画「新美容出版と美の継承者たち」』参照)
その後、『井上陽平美容研究所』開設。1964年(昭和39年)年パリに行った時にH.C.F(オート・コワフュール・フランセ=フランス高等美容連盟)の会長だったアレックス・トニオに「貿易自由化前にパリに来るくらいの人間なら、メンバーにしてあげよう。」と言われ、入会(後に日本支部会長)。1970年(昭和45年)日本支部創立と同時にI.C.D(当時:世界著名美容家協会)にも入会(後に日本会長)。1975年(昭和50年)I.C.Dのワールドコングレス(パリ)のステージに立ってから、1998年(平成10年)のSALON ESTILISMO’98(マドリード)まで、数々のヘアショーのステージに日本代表として出演した。氏が1978年(昭和53年)に立ち上げて主宰し、創立会長を務めていた『ヘアスタイリスト協会(以下HS)』が後にNPO法人となり、理事長に就任。以後毎年、『HS NEW HAIR MODE』発表会において、[発想と背景]、[ファッショントレンド]、[ヘアトレンド]に裏付けられた[テーマ]を決め、ヘアショーとコンテストを交互に開催した。次世代を担う美容師たちを育てるため、美容業界の発展のために惜しみなく力を注いだ一生だった。
座右の銘は、「この道より我を生かす道なし、この道を歩く」武者小路実篤
倒れるまで指にタコを作りながらニューモードを考え続けていらしたお姿が目に焼き付いて離れない。ご冥福をお祈り申し上げます。合掌。